青木屋ものがたり
明治二十六年の創業から、まもなく130年。
青木屋の歴史は、数々の挑戦の歴史でした。
時を遡って、今にも伝わる青木屋の
挑戦エピソードをご紹介します。
三代目 加藤次郎から受け継いだ、
挑戦する菓子づくり。
青木屋のはじまりは、東京の府中にある
大國魂神社の境内での万頭の商いでした。
創業者の祖父幸吉と、父の松五郎の跡を継いだ
加藤次郎が、青木屋の菓子づくりの土台を
築き上げた人物です。好奇心が旺盛で、
何事にもチャレンジする性格でもあり、
「モノマネでは、人の心を決して射ることはない」
と語り、数々の挑戦をしてきたのです。
東京でも希少な
アイスクリームへの挑戦。
ある日、加藤次郎は浅草で見かけた、
風変わりな味で
人気のアイスクリームを
青木屋でもつくれないかと考えました。
新しいものは誰よりも早く導入したい性分で、
当時では非常に珍しい冷凍機を導入。
ついに完成したアイスクリームを自転車に乗せて、
街中でチリンチリンと鐘を鳴らしながら
売り歩いたところ大人気で
遠方からも多くの
お客様がいらっしゃいました。
数年後、後を追うようにアイスクリーム屋さんが
次々に誕生したそうです。
大手メーカーに先駆けて、
菓子の冷凍化を実現。
柏餅の時期は、鮮度を保ったまま大量に
製造するために、みんな徹夜で働いていました。
そこで、加藤次郎が考えついたのが、
魚を冷凍する技術を菓子に活かすこと。
菓子屋として、前代未聞の冷凍化への道。失敗を重ねながら、
東京オリンピックが終わった昭和43年、
ついに青木屋は独自の冷凍施設と冷蔵庫を
完成させました。
この出来事は新聞にも掲載され、
全国の大手メーカーまで視察に訪れたのです。
菓子職人魂で、砂糖の代わりに
ハチミツを代用。
食糧事情の悪化した昭和17年。
菓子の命とも言える砂糖の入手が、
極めて困難になりました。
そこで加藤次郎が取った策は、
高価で貴重なハチミツを活用すること。
あてもないまま、
思いだけでハチミツの産地まで赴き、
菓子への使用を実現した。
当時のハチミツはそのまま売った方が高くなる。
しかし、職人魂がそれを許しませんでした。
品質において「妥協しない、良いものは
引かずに加える」という
菓子づくりの教えが今もあります。
世のために、
ぜひなくてはならぬ店になりたい。
数々の挑戦で、青木屋の礎を築いた
加藤次郎が残したのは、
菓子づくりの技術だけではありません。
今にも伝わる教えです。
商品は生き物。
不良品ひとつで信用がなくなることもありうる。
だから、「いいものを造れ、
恥ずかしくないものを世に出せ」と語りました。
また、菓子はお客さまの食前に上がります。
だから、「菓子に関しては、
妥協は一切許されない」。
和菓子の命は餡子である。つまり、
「小豆の良し悪しが味を左右するのだ」と。
これらの精神が、今日も青木屋の人に、
菓子に受け継がれています。
「世のために、ぜひなくてはならぬ店になりたい。これが青木屋の念願です」